6月11日火曜日

…ぼくらは南部の歪んだ黒人家族で、そこにはいつも笑いと、とんでもない嘘と、本があった。たくさんの本と笑いと嘘があり、その本を読み、再読して、ものを書き、推敲するように母さんにしきりに言われたことで、ぼくは言葉、句読点、文、段落、章、余白に怖じ気づいたり簡単に感心したりしなくなった。母さんはぼくに南部黒人の言葉の実験室を与えてくれたその空間でぼくは死にたくてたまらないときに記憶と想像を組み立てる方法を学んだ。(p.18)

キエセ・レイモン(著)、山田文(訳)『ヘヴィ:あるアメリカ人の回想録』里山社,2020.下線はわたしによる。

 6月11日(火)早朝6時53分。いまなぜ上の文章を書き写しているのかといえば、わたしもちょうどいま、「死にたくてたまらない」ほどではないけれど精神的なしんどさがせりあがってきて耐えがたく思っていたから。そこで、言葉を出して入れかえ組みかえして楽になることを期待して、これをいま書いている。

 早朝にシャワーをしたのだが、終始しんどい心身の感覚をおぼえていた。わたしはシャワーのさいに、身体を洗うことから意識がそれてべつの考え事へと没入してしまうきらいがある。今日のばあいは、じぶんの身体の姿かたちを意識して体のかたちは思いどおりにいかないなぁと思ったり(これにはひじょうに軽微な性別違和的なものもふくまれているように思う)、自傷行為の傷跡にシャワーの水が沁みてきたためにそのぐあいを意識して悲しくなったり。それをきっかけに、生活の世話がうまくできないことや、過去の思い出に耽溺したり未来へ不安をいだいたりする。そんなしんどいことを想ったのち、レポートや卒論執筆に思いをはせたことをきっかけに、「自分はきちがいだ」という意識がずんずんとせりあがってきてしんどかった。

 髪の毛にブラシをかけながら、昨日よんだスナウラ・テイラーの『荷を引く獣たち』という障害をテーマにした書籍のことや、そのなかで引用されていたアリソン・ケイファーの議論のことや、菊池美名子の論考のことを思いだしていた。わたしはディスアビリティのある心身でよかったといえるだろうか?「きちがい」でよかっただろうか?、と自問する。いや、よかったはずがないと一方では思った。ディスアビリティをかかえるきっかけになった出来事は経験しなければよかったのに、といまでも思っている。また、ディスアビリティのせいでたくさんの制約と損失をあじわった。回復できずいまも心は痛い。そのせいか自暴自棄のきらいがあって、未来もよく展望できない。

 気軽に愚痴をいえる関係の人がほとんどいない。わたしが何と格闘して何にエネルギーを吸いとられているのか、知っている人はほとんどいない。