24年5月23日の日記、と栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム』感想

 昨日から風邪をひいている。咳がコホコホと出て、声の調子がおかしい。体のかんじは通常どおりであるように感じられるのがさいわい。これ以上悪化しないように、家にあった市販のかぜ薬をちゃんと飲んでおこうと思う。明日の授業も欠席かなぁ。ふぁー。
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 昨夜――というか今日の朝だろうか――は外が白みはじめるまで、栗田隆子(2019)『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社)を読んでいた。おもに「はじめに」と「7 「愚かさ」「弱さ」の尊重」を読んだ。読んでいて、この言葉が書き残されてよかったとしんそこ感じた。そういう感情にひたりながら、以下にツイートした。

「深夜に栗田隆子(2019)『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社)を30分読んだ。ちゃんと読むのは5年ぶりのような気がする。なんかしみるように感じた。」

「わたしにとってこの本が大切なのは、①不登校メンタルヘルスを損なった心身の経験を語っているから、②フェミニズムがときとして能力主義と手を組む様子をアクセシブルな言葉で描きだしその危険を指摘したから、③また最後に、わたしのフェミニズム受容が、能力主義や学校文化への親和性、また「賢さ」への志向の上になされたものではなかったか、と気づかせられたからです。自分のフェミニズムという言葉の意識的な出会いは上野千鶴子なんだけど、そのときの自分のフェミニズムの受け取り方はなんだかかなぁと…」

https://x.com/bunchobuncho24/status/1793348900314874125

 この本のトピックは複数あるのだけど、そのひとつはフェミニズムのなかの能力主義である。どういうことかというと、性差別に抵抗しようとするフェミニズムの考え方・言い方が能力主義と手をとりあう危険を指摘しているのだ。もしフェミニズム能力主義と手をとりあって、能力主義やエリート主義と仲良しこよし、お互いに栄養をあたえると、学歴の低い女性や、健常健康な心身をもたない女性たちがフェミニズムの中心舞台からこぼれ落ちてしまう。そういう危険について光をあてた点(しかも平易な言葉で!)で、わたしにはこの本が唯一無二の達成に感じられる。

 栗田の文章をうけて思ったことを以下に書きたい。わたし自身、いったい自分がなにを話そうとしているのかまだわかっていない。まよいながらうなりながら書いている。もしかすると下に書くことは間違っているかもしれない。間違っているとわかったときには訂正するから、とりあえず話をさせてほしい。話をしたいのは、栗田の書き方についてである。

 もとよりこの本はエッセイであって、厳密なアカデミックなスタイルでは書かれていない。連想に近い書きかたや、出典の明らかでないところも一部ある――ここから考え始めたこと。わたしがいいたいのは、このように厳密に論理一貫させていないことが悪いということではない。むしろ、このエッセイがアカデミックなスタイルではなかったからこそ、可能になったことがあるのではないか、ということである。もし論文の書き方を踏襲すれば、厳密にリクツのつながりを一貫させようとすれば、おそらく袋小路につきあたって、このエッセイに現れているような、ぼそぼそ声・うめき声・うなり声・もやもやは沈黙のなかに押しやられてしまうのではないか。アカデミックな書きかた・話しかたができないからといって話すのをあきらめ、栗田の経験したような思考や情動のありかたが見えなくなったり知られなくなったりしたら、それはすごくいやだ。

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 わたしは大学にかよう学生である。大学ではいろんなことを学ぶけれど、そのなかでも集中的に訓練されるのが書き物である。教員たちからは常日頃、パラグラフ・ライティングで書こう、だとか、問いと命題を明示的に対応させようだとか、論理一貫させよう、だとか、出典はちゃんと示そう、だとか言われる。ある教員は「詩以外の文章はすべてパラグラフ・ライティングで書くように」とさえ言っていた。そういう訓練を受けている身なので、いちぶ連想のような書き方をするこの本のスタイルが、目にとまったのだろう。論理ってなんだろうな。
 わたし、いま取り掛かり始めた卒論でもなにかしらフェミニズムについて書こうとしているのだけれど…論文はフェミニズムについて何ができるだろう?

栗田隆子(2019)『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社)の書影。