5月25日土曜日と26日日曜日

 土曜と日曜は、ICUで開催された政治思想学会に参加した。病身での参加、きつかったね(おうちで休んどけよ――だけど来ちゃった)。



以下、弱音はきです。

 風邪しんどいようよう。さっきは夕ご飯にラーメンを食べてきたんだけど、味覚と嗅覚がやられているのかごはんの味がよくわからなかった――え、病気だろ?家で自炊しろよ、という声が頭の一隅から聞こえるけれども、わたしはさいきんずっと自炊ができていないのだ。それに今は絶賛身体の調子をくずし中、それにひきつられてメンタルの具合も悪くなってきているから自炊はちょっと無理である(言いわけ)。

 咳がたくさん出る、鼻水もひどいし。ところでわたし今半袖を着ているんだけど、さむいなあ、上着、薄いのでいいからなにかもってくるべきだった。

 このような、心身の状態がよろしくないわたくしの頭に以下のイメージがぼんやりと像を結んだ:家のなか、だれかがわたしの代わりに家事や炊事をやってくれている。わたしはその間安全な気持で布団のなかに体を横たえている。体調を崩したことにつられて、わたしが将来について不安がっていたら、話をひと通り聞いて、「大丈夫だよ」なんて言って力づけてくれる。そんな人がおったらよいのに、と一瞬思ってしまった。――そんな再生産労働と感情労働をわたしのためにしてくれる人間なんておるわけないだろ、じぶんでやれや。

 話はまた変わるのだけれど、苦しくなったり不安になったりしたとき、わたしはいつも母親に電話して感情のケアを求めていた。母親以外に、しんどい・つらい・疲れた・不安だと、正直に打ち明けられるような人はいなかった。なぜ気軽に愚痴をこぼしあえるような知りあいがいないのか――わたしが自分のしんどさについて徹底的に話すなら10年くらい時間の針をもどさねばならないと思うが、そんなことは精神的に負担であるし、じぶんでもどのように話したらよいかわからないから。だけどそんな徹底的に打ち明けたことはなくとも、メンタルが疲れやすく失調のきらいがあるとは周囲の人間に開示できている。
 さて、このように、しんどいときにいつも母親に電話して感情ケアをさせていたわたしであったが、ここさいきんは、インターネットと電話が不調であるため母親に連絡できていない。しんどいときは、一人で対処するようちょっとがんばっているよ。母親はすこしは楽になっているだろう。この調子で、母親に過重な感情労働をさせることはやめたいと思う。もっと一人で感情の危機に対処できるようになったり、家族以外のほかの人間との関係のなかで、じぶんのことをすこしづつ話せるようになったらよかろうなぁ。